東南アジア現地の法令との向き合い方
将来のExitを見据えた場合、東南アジアに進出するスタートアップにとって、現地法令の遵守は極めて重要な課題です。他方で、特に東南アジアにおいては、「法令遵守」を目的そのものとしてしまうと、身動きが取れなくなってしまうおそれがあります。重要なのは、事業の持続的な成長を前提とした上で、リスクを適切に評価し、取捨選択を行いながら現地制度と向き合うという姿勢です。
その理由は、多くの東南アジア諸国では、法令の文言とその運用実態との間に大きな乖離が存在するためです。実際、「法律に書かれている内容」と「当局が現実に求めてくる対応」とが一致しないケースは珍しくありません。このように明確なガイドラインや正解が存在しない環境下では、企業は自らの判断で意思決定を下さざるを得ない場面がより多くなります。したがって重要なのは、「治癒可能なリスク」と「治癒不能なリスク」を見極め、後者を回避する形で意思決定を積み重ねていくことになるでしょう。とりわけ、Exitの段階や当局の介入時に致命的な影響を及ぼすリスクは、事前に除去しておく必要があります。
現地進出に際して留意すべき法令は数多く存在しますが、その中でも筆者の経験上、特に理解を深めておくべき主要な領域がいくつかあります。以下では、それらのポイントについて順に解説していきます。
■ 会社法(特に株式に関するルール)
成熟した日本の会社法に慣れているスタートアップ企業にとって、現地の会社法制度の違いは、最も陥りやすい落とし穴の一つです。とりわけ株主構成や株券の発行、株主名簿の管理、株式譲渡制限など、将来のExit(日本法人のExitはもちろん、現地法人のみを切り離したExitも想定しておく必要があります)を見据えた株式管理の制度設計は、極めて重要かつ優先度の高い領域となります。
また、現地では言語の問題もあるため、登記・登録されている情報と実態との間に齟齬が生じているケースも少なくありません。そのような不整合は、M&AやIPOなどのExitプロセスにおいて重大な支障を招く可能性があります。したがって、株主間契約の整備、株式譲渡の記録、登記変更の手続などを的確に実施し、後から修復できないリスクを未然に防止することが不可欠です。
■ 許認可(ライセンス)に関する法令
東南アジアにおいて、事業運営に必要なライセンスが存在するにもかかわらず、未取得のまま事業を行っているケースや、取得したライセンスの範囲を逸脱して活動しているケースは、実は少なくありません。日本国内であれば注意を払うことで十分に防げる問題も、東南アジアでは制度の複雑さや情報の不透明さから、正確に把握することが容易ではない場合があるためです。
とはいえ、ライセンス関連の違反は、営業停止や罰金、さらにはライセンスの取消といった重大な行政リスクにつながるおそれがあります。こうした制裁は事業継続に直結するため、軽視することはできません。また、ライセンスの「更新忘れ」も頻発するトラブルの一つであり、定期的な確認と点検の仕組みを社内で確立しておくことが重要です。
■ 労働法令
先ほど、「治癒可能なリスク」と「治癒不能なリスク」を見極めるべきだと述べましたが、その観点から見れば、労働法令は、比較的事後的な治癒が可能な分野といえます。たとえば、解雇に伴う補償金の支払い、就業規則の整備、残業代の未払いといった問題は、是正措置を講じることでリスクを一定程度低減することができます。それでもなお、筆者がこの分野の理解を重視するのは、労務管理こそが現地オペレーションにおいて最も工数を要し、事業スピードに直結する領域だからです。
現地法への対応によって、日本の本社との就労環境に乖離が生じる点も見過ごせません。本社の仕組みをそのまま持ち込もうとすれば、現地従業員の反発を招くおそれがある一方で、現地の制度を他社に習って真似るだけでは、会社の文化が根付かないこともあるでしょう。容易なことではありませんが、現地の労務管理を適切に運用するためには、現地法を理解したうえで自社オペレーションを再構築する姿勢が求められます。このバランスをいかに取るかが、海外拠点における労務管理上の重要な鍵となります。
■ その他:不透明な規制との付き合い方
制度がまだ十分に成熟しておらず、規制内容が曖昧であったり、実務上ほとんど適用ないし運用されていなかったりする領域も存在します。こうした分野では、「現地実務として何が求められているのか」「当局が実際にどのように運用しているのか」といった情報を丁寧に収集・分析し、リスク評価にもとづいて合理的な対応方針を設計することが不可欠です。
重要な点は、単にリーガルリスクを完全に回避することではなく、発生し得るリスクに対して自社がどのように説明できるかという説明可能性を確保することにあります。この「説明可能性の確保」こそが、制度が不透明な環境下における実務上の最も重要な視点といえるでしょう。
東南アジア進出における事例と教訓
最後に、東南アジアへの進出を果たしたスタートアップにおいて、よく見られる失敗パターンと、そこから得られる教訓について整理していきます。実際に生じるトラブル事例として、進出計画立案の一助としていただきたいと思います。
■ 事例1:投資契約後の計画変更による投資家との齟齬
事例:東南アジアにおける事業維持に思いのほか資金を要し、追加資金の調達が必要となった。既存投資家に追加出資を打診したものの、「出資資金の使途について、これ以上の資金を海外事業に使うことは投資家として想定していない」として難色を示され、調整に長期間を要した。撤退にも相応のコストが発生するため、進退が困難となり、結果として大きな機会損失を被った。
教訓: 海外展開は、計画どおりに進まないことが少なくありません。進出にあたっては、初期段階から十分な余裕資金を確保し(前回のコラム「東南アジア進出の実例(ランニングコストを踏まえた分析)」もご参照下さい)、追加資金が必要となる場合に備えて、既存投資家との認識を事前にすり合わせておくことが重要です。また、撤退時に発生し得る費用についてもあらかじめ想定し、可能であれば、最悪の場合の損失を事前にシミュレーションしておくことが望ましいです。
■ 事例2:合弁相手の株主との軋轢
事例:現地の事業展開を迅速に進めるため、現地企業と合弁で新会社を設立した。しかしその株主は成長投資に対する理解が乏しく、経費の抑制と早期の配当を強く求めるタイプであったため、資金を成長投資に再投入したい日本側との間で対立が生じた。意見の相違が解消せず、株式の買い戻しを試みたが、条件が折り合わず揉め事となった。
教訓:合弁事業などの場面において、現地出資者の選定は、慎重に行う必要があります。株主としての経営関与の範囲については、事前に合弁契約又は株主間契約などで明確に定めておくことが重要です。なお、東南アジアでは、キャピタルゲインによる収益実現まで事業を成長させようとする意欲が高くない投資家も少なくありません。そのため、現地株主を迎える場合には、投資スタンス(成長志向か収益志向か)を見極めたうえで、Call Option条項などにより経営上の統制を確保しておくことが望ましいでしょう。
■ 事例3:労務対応の不備による事業停滞と不信感
事例:現地の労働法制や雇用慣行を十分に理解しないまま、日本式の評価・管理制度をそのまま導入した結果、従業員の定着率が著しく低下し、採用・育成コストが増大。スタッフの頻繁な入れ替わりにより、業務の継続性やサービス品質にも悪影響が出た。さらに、経営陣と現地従業員の間に信頼関係が築かれないまま運営されたことで、社内に不満や不信感が蓄積し、小さな横領や情報の社外持ち出しといった不正が常態化した。
教訓:本事例は、東南アジアへの進出企業において最も発生しやすいトラブルの典型例といえます。現地の労働法令を理解することはもちろん、文化や価値観、雇用慣行の違いを踏まえたマネジメントを行うことが極めて重要です。他方、現地の人材採用において、ミスマッチを完全に避けることは困難であって、ある程度の失敗はやむを得ないでしょう。現地の労働法制は、日本法と比較すると解雇が容易な場合も多いため、そういう局面で会社が懲戒処分を下すことを極端に恐れる必要はないと考えます。
■ 事例4:子会社株式の名義管理ミス
事例:現地子会社の設立手続きを第三者の代行業者に委託した際、一時的に業者関係者の名義で株式が発行されたが、正式な譲渡手続きを失念したため、日本側が株主権を行使できない状況に陥った。さらに、M&A交渉の際には株式名義の不整合が指摘され、譲渡プロセスをやり直す羽目となった。
教訓:株主名簿や株券、登記情報の定期的な点検と管理体制の整備は極めて重要です。こうした情報に不備があると、本社が正当な株主としての権利を行使できなくなるおそれがあり、M&Aや資本政策の場面で深刻な支障をきたしかねません。そのため、設立時だけでなく、増資や役員変更のたびに登記情報が正確に反映されているかを確認するプロセスを設けることが大切です。また、株主名簿情報や株券情報などは、本社でも厳重に保管する体制を整備し、現地との間で定期的に突合を行うことが望ましいでしょう。
■ 事例5:許認可の範囲逸脱及び更新漏れ
事例:当初取得した事業許可証では「職業紹介業」に限定されていたが、その後、隣接する事業に拡大したことで当初の許可範囲を逸脱。違法営業とみなされる可能性があり、当局の介入や投資家からの信頼喪失を招いた。また別事例では重要なライセンスの更新を失念し、有効期限切れとなった結果、再取得に膨大な時間とコストがかかり、事業縮小を余儀なくされるケースも見られる。
教訓:許認可は、取得すること自体もさることながら、取得後の適切な管理も重要です。許可された範囲を逸脱して事業を行うと、違法営業とみなされるおそれがあり、当局からの指導や調査、さらには投資家の信頼喪失につながる可能性があります。そのため、ライセンスの有効期限や更新時期を一元的に管理する体制を整備し、定期的に確認する仕組みを設けることが必要です。
まとめ
上に述べてきたように、現地法制度は国によって成熟度が異なり、法令と運用実態の間にギャップがあることも少なくありません。こうした不確実性の中では、全てのリスクを排除することは不可能です。重要なのは、事前にリスクを把握し、どのリスクを受容し、どのリスクを回避すべきかを明確にしたうえで、合理的かつ一貫した判断を下すことでしょう。
また、今回紹介した各事例で示すように、会社法・労働法・許認可制度といった基本的な法領域に加え、投資家や現地株主との関係構築など、実務上の落とし穴は多岐にわたります。したがって、進出後も、できるだけ専門家を交えながら、定期的に法務・会計・労務の各分野を点検し、現地の変化に即応できる柔軟な仕組みを維持することをお勧めします。
以上


