現在、日本のスタートアップを取り巻く環境は大きな転換点を迎えています。東証グロース市場における上場維持基準の引き上げは業界に大きな議論を呼びましたが、AIによるプロダクトの標準化、国内市場の縮小など、外部環境の変化はこれまでのどの時代より、速く・複雑になってきました。そして、その中で、生き抜くスタートアップの選択肢の一つに「東南アジアへの展開」がしばしば取り上げられるようになりました。
スタートアップにとって海外展開は「次の成長ステージ」に進むための重要な選択です。その中でも、東南アジア市場は、スタートアップにとって第一の選択肢というよりも、「現実的な落としどころ」として選ばれることが少なくありません。その背景には、米国・欧州・中国と比較した際に見られる東南アジア市場の「ちょうど良さ」があるように思います。
本稿では、東南アジアで法務サービスを提供してきた私たちの経験を踏まえ、スタートアップ企業にとっての東南アジア市場の位置付けを整理し、進出を検討する際に必要となる法務上の比較・視点を提示します。
東南アジアの特徴
まず、他の主要市場と比較すると、米国は競争が過熱し顧客獲得コストが高騰、欧州は国ごとに規制や文化が異なり複雑、中国は保護主義や規制変更リスクが大きく参入が難しい状況にあります。これに比べ、東南アジア市場には以下のような特徴があると言えるでしょう。
■ 適度な競争環境
米国や中国ほどのレッドオーシャン(極度の競争過多)ではなく、新興市場であるがゆえに発展の余地が大きい。既存の巨大プレイヤーが少なく、日本のスタートアップにとっては参入しやすい市場である。
■ 比較的緩やかな規制環境
欧州のような厳格な統一規制(例:GDPR)は存在せず、中国ほど不透明でもない。国や業種によっては外資誘致のための優遇措置が設けられている場合もあり、日本企業にとって参入障壁は相対的に低いといえる。
■ 低コストでの市場展開が可能
東南アジアは全体として人件費及び顧客獲得コストが低く、初期の市場開拓を低コストで進めやすい。税制面でも欧州ほどの負担はない。
■ 日本ブランドへの信頼
米国や欧州では、日本企業であることが価値として特筆されることは少ないが、東南アジアにおいては親日的な態度が多く、日本のビジネスに対する信頼感や親近感は強い。
■ 高い市場成長性とスケーラビリティ
東南アジア全体では約7億人の人口を抱えており、若年層の比率も高い。ASEAN全域を視野に入れれば、日本市場を上回る巨大なユーザーベースにアクセスすることが可能である。
以上のように、「米国は競争が過酷すぎる」「欧州は制度対応が複雑すぎる」「中国は規制が厳格すぎる」といった状況の中で、東南アジア市場は日本のスタートアップにとって、戦略的かつ実行可能性の高い選択肢として位置付けられているようです。
主要5カ国の特徴と外資規制
一口に東南アジアと言っても、国ごとに市場環境やビジネス展開上のメリット・デメリットが異なります。また、東南アジア各国は、主に自国産業保護を目的とした外資規制を敷いており、それらによって進出の適否は大きく左右されることにも注意が必要です。そこで以下では特に進出検討が多いタイ、ベトナム、フィリピン、インドネシア、マレーシアの5か国について、その市場の特徴と外資規制を整理しておきます。
■ タイ
市場の特徴
タイには製造業を中心に日系企業が5,000社以上進出しており、日系企業同士の強固なネットワークが存在している点が最大の特徴です。現地に進出するスタートアップがタイ市場を選ぶ理由として、「日本企業との連携によるネットワーク構築が容易であること」と語るケースも多く、日本企業のプレゼンスは極めて高いといえます。また、東南アジアの中でも経済基盤が安定しており、政治・インフラ面の信頼性も比較的高いことから、長期的な投資先としての魅力も備えています。
外資規制の特徴
タイでは外国人事業法により、小売業・サービス業など多くの分野で外資出資比率が50%未満に制限されています。タイ進出の初期段階で直面する最大の課題が、この外資規制への対応です。回避策としては、タイ資本との合弁会社を設立し、過半数を現地側に持たせる方法があります。これにより規制対象業種でも実質的に参入可能となりますが、出資比率に応じた権限配分や将来的なExit時における利害調整が必要となります。もう一つの方法は、タイ投資委員会(BOI)の投資奨励認可を取得することです。BOI認可を受ければ、外資100%で現地法人の設立が可能となり、法人税の減免など各種インセンティブを享受できます。ただし、BOI認可には事業内容の限定が伴うため、事業転換(ピボット)が困難になる点には注意が必要です。
■ ベトナム
市場の特徴
ベトナムは人口約1億人を有し、平均年齢が30歳前後と若年層が多い国です。この若い人口構成と高い経済成長率により、消費市場として非常に大きなポテンシャルを秘めています。実際に、多くのスタートアップが「次に注力すべき市場」としてベトナムを位置づけています。政府もIT産業振興やスタートアップ支援に積極的であり、日本企業もソフトウェア開発やオフショア拠点としてベトナムを活用しながら進出を拡大しています。
外資規制の特徴
ベトナムはWTO加盟以降、外資規制を段階的に緩和してきました。現在では多くの業種で外資100%の現地法人設立が認められています。製造業やITサービス、一般的な商取引分野では外資単独での参入が可能です(金融・物流・メディアなど一部業種は外資比率に上限あり)。ただし、ベトナムではほぼすべての業種で「投資登録証(IRC)」及び「企業登録証(ERC)」の取得といった投資プロジェクト登録手続きが必要です。これらの取得には一定の時間がかかるため、進出にあたっては余裕を持ったスケジュール設計が不可欠です。
■ フィリピン
市場の特徴
フィリピンは人口1億人を超える東南アジア有数の英語圏市場であり、英語人材が豊富です。その背景から、英語力を活かしたBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)産業が発展してきた経緯があり、現在はデジタル人材の供給源としても注目されています。日本のスタートアップでも、フィリピンに開発拠点を設け、現地エンジニアがプロダクト開発やテクニカルサポートを担う事例が見られます。英語力と人材力を活かせるフィリピンは、カスタマーサポート拠点やバックオフィス業務のハブとして適しており、将来的な成長余地も大きいと評価されています。
外資規制の特徴
フィリピンでは、外資参入制限業種を記したネガティブリストに掲載された分野(例:マスメディア、小規模小売業、不動産等)において、原則として外資比率が40%以下に制限されます。他方で、ITサービスや製造業といった業種は外資100%の現地法人設立が可能です。ただし、外資100%法人で内需向け事業を行う場合には、通常20万米ドル相当(約3,000万円)の最低払込資本金が必要です。これはスタートアップにとって大きな負担となるため、輸出比率を一定以上確保するか、外資比率を40%以下に抑えて資本金要件を緩和する方法も検討されます。また、フィリピン会社法により、すべての株式会社には「フィリピン居住者によるコーポレート・セクレタリー」及び「フィリピン国籍保有者による財務責任者(トレジャラー)」の配置が義務付けられている点にも注意が必要です。
■ インドネシア
市場の特徴
インドネシアは約2.7億人の人口を抱え、東南アジア最大の潜在市場を形成しています。平均年齢も若く、都市部・農村部の双方でデジタル市場が急拡大しています。スケール志向のビジネスモデルに適した市場であり、現地スタートアップからもGoToグループ(Gojek & Tokopedia)のような大型企業が誕生しています。大量ユーザー獲得戦略や、シンプルな機能提供によるコスト効率の高いサービス展開に適した環境といえます。
外資規制の特徴
インドネシアの外資規制は2021年の法改正以降、憲法裁判所の修正命令などで混乱があったものの、現在では「原則自由+一部制限業種」という緩和型の仕組みが採用されています。通信・メディア・流通などの一部業種には出資制限がありますが、分野によっては外資100%での参入も可能です。ただし、外資企業(PMA)を設立するには最低100億ルピア(約1億円)の投資計画が必要とされます。この要件により、スタートアップ単独での参入は容易ではなく、現地企業との提携を前提とするケースも多いです。また、業種ごとに必要な営業ライセンスはOSS(オンライン単一窓口)を通じて取得する必要がありますが、頻繁な制度改正と煩雑な運用が実務上の障害となっています。
■ マレーシア
市場の特徴
マレーシアは人口約3,500万人規模ですが、一人当たりGDPは1万ドルを超えており、中間層が拡大しています。英語が広く通じ、ITインフラも整備されているため、デジタルサービスの受容性が高い国です。また、シンガポールに近接している地理的条件を活かし、ASEAN全域を統括するリージョナルHQ拠点としての活用も進んでいます。市場単独で急成長を期待するのは難しいですが、ASEAN戦略全体の一部として有力な拠点となります。
外資規制の特徴
マレーシアは外資受け入れに比較的寛容な国であり、2009年以降に多くの業種で外資100%の現地法人設立が可能となっています。製造業やサービス業における外資制限は撤廃されており、日本企業が現地パートナーなしでビジネスを開始できる点は大きなメリットです。ただし、同国内での事業運営には、WRTライセンス(Wholesale and Retail Trade License)が課題となる場合があります。外国資本がマレーシア国内で消費者向けに商品販売やサービス提供を行う場合、事実上このライセンス取得が必須であり、取得しないと事業継続に支障をきたす可能性があります。さらに、WRTライセンス取得には最低資本金100万リンギ(約3,300万円)以上の払込や現地役員の登用など追加条件が課される場合もあるため、事業計画段階から織り込んでおく必要があります。
各国比較表
国名 | 市場の特徴 | 外資規制のポイント | 進出時の注意点 |
タイ | 日系企業ネットワークが強固、経済基盤が安定 | 外国人事業法により多くの業種で外資比率50%未満制限 | BOI認可で外資100%可能だが、事業転換が難しい |
ベトナム | 人口約1億人、若年層多く高成長 | 多くの業種で外資100%可能(ただし一部業種は制限あり) | IRC・ERC取得に時間がかかるためスケジュール調整が必要 |
フィリピン | 英語人材豊富、BPO拠点として強み | ネガティブリスト業種は外資40%以下制限、それ以外は外資100%可 | 内需向けの場合、20万米ドル資本金が必要。役員に現地人配置義務あり |
インドネシア | 約2.7億人の巨大市場、デジタル成長著しい | 原則自由だが一部業種で出資制限あり | 最低100億ルピア投資計画が必要、頻繁な制度改正に留意 |
マレーシア | 中間層拡大、英語・IT環境整備済 | 多くの業種で外資100%可能 | WRTライセンス取得が必須(資本金条件あり) |
まとめ
今後もGVA国際法律事務所は、「東南アジア × スタートアップ」 をテーマに、現地での法制度や規制動向、実務で直面しやすい課題、そして成功・失敗の事例などを幅広くお届けしていく予定です。具体的な検討やお悩みがある場合は、どうぞお気軽にご相談ください。